ども、人知れず「かっこいい」を目指しているendyです。
●相手が誰であれ
親しくしている友人夫婦は1匹の犬と一緒に暮らしていた。
先日、その犬が亡くなった。
まだその後の彼らには会っていないが、相当な落ち込みようらしい。
子供のいない彼らにとって、夫婦間のささいないざこざも、その犬の存在がやわらげてくれたこともあったろう。
「たかが犬が死んだだけではないか。」
たしかにそうなのだけれど、こういった悲しみは相手が人間であるとか犬や猫であるとかいったことには関係がない。
ひょっとして生物ではなくてもいい場合だってあるはずだ。
問題はいかに相手に愛情をそそいだかということなのだ。
●悲しみを理解する

父が亡くなって今年で2年になろうとしている。
あきらかにその時から、以前よりも「死」ということに対して敏感になっている。
悲しみにくれている人を自分と置き換えるようになったのだ。
私がもっと若い頃、父が健在だった頃は、親が死んでしまうなどということは想像すらできなかった。
だから当時そういう状況にある人を見ても、表面上は悲しいのだけれど、心の底からの実感はできていなかったように思う。
恥ずかしながら今になって、肉親を失った者の悲しみを理解できるようになったのかもしれない。
●大正琴プレイヤー
現在、母は一人で暮らしている。
以前、大正琴をやっていたときはたくさんのお友達と交流があったけれど、父がいなくなってからは、それも煩わしくなってきたらしく、1人で家にいることが多い。
母はよくつまずいたり転んだりするので、冬の間などは特に外に出かけてほしくはないと思っている。
しかしそうなると、ずーっと家で1人でテレビを見ている毎日になってしまう。
先日はそんな母に、久しぶりに自分が出演する出前コンサートに招待してあげた。
その昔日本がバブルで浮かれていた頃、母は大正琴プレイヤーとして様々なイベントに出演していたらしく、出前コンサートの会場にもお客として客席に座ったのは初めてだという。
「私、前から客席からステージを見てみたかったと思ってたの。」
●犬でも飼ってみれば
1人で家にいる母が寂しそうに思えて、こんなことを話したことがある。
「1人でいるのもつまんないでしょ。犬でも飼ってみれば?きっと楽しいよ。」
そういえば母は生き物を飼うのが得意だった。
死にそうになった金魚を、いつのまにか元気に蘇らせたことが何度もあったのだ。
そんな母であれば、きっと犬でも猫でも仲良くやっていけそうな気がしたのである。
そんな私の思いをよそに母はこう言った。
「いやだよ、私。だって私より先に死んじゃったらいやだもん。」
うーん・・・確かにそうだ。
一人暮らしの状態で、パートナーを失ったらそのショックは計り知れない。
しかも母はそれを経験したばかりなのだ。
「こんなこと言って失敗したかな」という顔をしている私に母はこう続けた。
「私、アイボだったらいいかな。」



※3月のスケジュールを更新しました。
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